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December 29, 2023

また1年が経ちました。

 SNSのおかげで、今年も世界中に散らばった友人知人からお誕生日のお祝いメッセージをいただけました。ありがとうございました。

また1年が経ちました。


2023年、個人的には慌ただしい1年でした。

春、体調崩して夜中に気を失って倒れ、歯を折るやら打撲やら縫合を要する裂傷やら。その数日後に久しぶりの日本で、治療の傍ら、東京、福岡、高知。日本から戻ったらまた片道4便を乗り継いでジュネーブ出張。夏には反対に大物出張者の受け入れ。秋、不安定な航空便に悩まされながらの海外から海外への引越し。その合間に東京にちょっと寄って所用を済ませたり。そして、新しい街での生活の立ち上げ。それがようやく落ち着いてきたと思ったら、もう年末、誕生日です。早い早い。

期待され、お声がかかり、会おうと言ってくれる人がいて、仕事があるのはありがたいことです。そうやって慌ただしくしているうちが花なのかと思ったりもしますが、いつまでこんな生活が続けられるのかと、ふと振り返ることもあり、鏡を見るとずいぶん老けた自分がいます。

特に体力の衰えを感じているわけでもなく、なんならベンチプレスは前よりも重量上がるくらいなんですが、僕によく似た骨格の母方の叔父2人はいずれも50代の時に病が見つかって日本人男性の平均よりずいぶん早く亡くなり、母も今の日本では長寿とはいえない年齢で他界したことが頭をよぎります。

まあいい。

明日は明日。目の前にある選択肢、世の中にとって、自分にとって、よりマシな方を選びながら、前に進むのみです。

みなさま、よいお年を!

September 03, 2023

離島を散策。 〜レンゲル島〜

 週末、ポンペイ本島からボートで15分ほどの離島、レンゲル(Lenger)島を散策してきました。



旧日本軍が整備した飛行機の離着陸場

おそらくは駐屯地のゲートの門柱

砲台の一部分かなあ。旋回する構造なのは窺える。

山頂の司令部か。

トンネルや塹壕もあちこちに。

発電機と思われる。




貯水設備でしょう

飴細工のような光沢の植物。

車両?

よく分からない大きな鉄部品が散在。

ポンペイ本島を望む。

オイルタンクらしい。

隣のサプティク(Sapwtik)島。

精霊の木。夕方にこの木の洞に入ると帰って来れなくなるという言い伝え。トトロいる?



 第二次世界大戦が終わるまで、旧日本軍が整備していた拠点のひとつです。日本から3000km以上離れた太平洋の島々で、戦前の日本は数々の軍事・経済の活動を展開していました。

 レンゲル島は地元一族の私有地。1990年代末から2000年代初頭までは簡単な観光施設もあったようですが、今やそれも朽ちていました。旧日本軍の遺物も草木や土砂に埋もれてもはや近付けないところ、何があったか分からなくなっているところもあって。

 「夏草や兵どもが夢の跡」と言うには繁茂しすぎる夏草です。

撮影:iPhone12 mini
Special Thanx : Kanji Nonbe

May 20, 2023

海外暮らしと日本の暮らし


24歳まで九州の地元から引っ越したことがなかったけど、就職して上京したら日本人に馴染みの薄いマイナーな国への出張を繰り返すようになり、30歳を過ぎた頃に最初の海外赴任。中東。

赴任を終えて帰国するも転職を繰り返し、やがてアフリカ赴任の話をもらってそこで5年。

いい加減、転職は難しい年齢になってしまったけど、今は訳あって南洋の島暮らし。

とはいえ、年に1回くらいは帰国し、東京と地元九州でしばらく過ごすという休暇を取っています。今回も約1か月の一時帰国。この時ばかりと日本の友人知人たちに会い、食べたいものを食べています。

人生のいい時期をかなりの間、変な途上国で過ごしてしまい、東京や地元のよさを十分に味わえなかった一抹の後悔を、一時帰国のときに感じます。それを埋め合わせるかのような1か月です。

しかし後悔はするかもしれないけど、後悔をするのも、海外に出て日本の良さを知ったからなんですよね。

時間には限りはあって、ずっと日本で暮らし続けることと、海外暮らしをすることの両方を満たすことはできなかったのです。これでよかったとしか言えない。「ずっと日本で生活するという選択肢もあったよな」と思うのは、後悔とさえ言えない、郷愁や懐古に近いのかも。

時間、エネルギー、若さ。限られた資源をどう使うか。トレードオフ。

年を重ねるということは、限られた資源をどこに使い、ありえた選択肢の何を捨てるかを決め続けることだったのでした。


December 29, 2022

お誕生日おめでとう、自分。


みなさま、お誕生日のメッセージありがとうございました。

年末の仕事納めの日が誕生日で、毎年否が応でも一年を振り返る日になってしまいます。

2022年、疫病に戦争に暗殺と、ほんの数年前だったら「まさか」と失笑を買うに違いない出来事が続いて、当たり前と思っていたことが当たり前ではなかったのだと認識する年でした。

仕事の上でも世の中の情勢を受けた動きがあったりして、「大丈夫なんか?」と不安が先立つことも多かったです。

そして。
2022年は一番親しい友達の一人を亡くしました。同年代の友達で、悲しいという単語では表現できない喪失感を、いまだに噛み締めているところです。

それでも明日はやってくる。まもなく新しい年を迎えます。大きなことはできないんだけど、少なくとも選べることがあれば、世の中にとって良い方を選ぶようにしよう、今はそんな風に考えています。

みなさま、よいお年を!

March 31, 2022

(追悼)Nのこと。



 「困ったな。」

咄嗟のことに何も言えなくて、ようやく出てきた言葉がそれだった。

ビデオ通話で話したい、そう言われて何事かなと思ったら、

「Nが亡くなりました。」

と彼は言う。見ると泣き腫らした目をしてる。

そうか、こういう時は泣くのか。でも、唐突すぎて、何の反応もできない。

「困ったな。」

そう、困るんだ。Nがいなくなると。

僕が、よりによってこの新型コロナの折に海外赴任しようとしてあちこちで足止め食らって、赴任したらしたで今度はそこから出れなくなって、そんなこんなでしばらくNには会えていなかった。もしかして1年近く会ってないのか。

でも、Nを拠り所にしてたんだ、実は。

「これは今度会う時に。」

「これ、聞いてみよう。」

「これ自慢してやろ。」

いつもNの存在があったのに。やいのやいの言いながら、結局頼ってたのに。

*   *   *

Nとは大人になってから親しくなった。近くにいるから、級友だからと親しくなる子供の友達ではない。大人になって、ちゃんと自分が自分として独り立ちしてから親しくなった。そういう貴重な友人だった。

僕とはタイプの違う人種だったけど、逆にそれが良かったのかもしれない。ベタベタするわけでもない、大人の友達の距離感が良かったのか。

そして、僕はNとたくさん旅をした。

石垣島、波照間島、八丈島、ジンバブエ、アゾレス諸島、谷川岳、ラダック。。。

新型コロナのせいで出入国制限が厳しくなってしばらく旅には出られてなかったけど、今僕がいる国の国境規制が緩和されたら、真っ先に来るのはNのはずだった。その時はNのパートナーも一緒の予定だったよな。

Nは、昔、僕と知り合うよりも前、この国に来ようとしたけど都合が合わなくて目的地を変更したことがあったという。でも、旅先の情報収集はしていて、その時入手したというこの国の立派な地図を、僕の赴任に際して餞別がわりに持たせてくれた。


なんだよ。遺品じゃないんだからさ。

最後に一緒に旅行したのはラダックってことになってしまうわけ?

Nが病院に入ったというその日も、僕のLINEメッセージには普段と変わりない返事をしてたじゃないか。

渋谷で、新宿で、数えきれないほど、毎週のように飲んだじゃないか。そうそう、桜の季節には、今はもうないあの渋谷のバーによく行ったよな。窓から満開の桜がよく見えた。

*   *   *

Nは中島みゆきのファンで、地平線しか見えないようなアフリカの平原の一本道を2人でドライブした時も、Nはカーオーディオで中島みゆきを流した。なかなかシュールな時間だったよ。

そうか、中島みゆきか。Apple Musicで探して運転しながらかけてみると、訳がわからない涙が出る。運転できないじゃないか。


困るよ、いなくなられると。



August 28, 2021

新型コロナの渦中に、南の島に行く。

 


南太平洋の島ですよ。そう言われたのは2020年のたしか2月頃でした。そして本決まりになったのが4月。

アフリカから帰国してから既に7年が経過し、そろそろまた海外で仕事をする話になることは想定済み、母の病状が思わしくないのでできれば近い国がいいなと思っていたので、南洋の島国を持ちかけられた時にもそこまでの驚きはなく。

しかし新型コロナの感染が世界的に広がり始め、前の年の11月や年明け2月に予定していた海外出張がキャンセルになっていて、そんな時期に南の島になんか赴任できないよな。

案の定、太平洋の島国はどこも我先にと外からの人の入国受け入れを厳格化し始めました。島という孤立した環境では一度ウィルスが入ってきてしまうと手に負えない、十分な医療体制もないので仕方ない。とりあえず国境を閉じるしかない。

・・・それから1年半近く経ちました。島の人々の感染症に対する過剰なまでの恐怖心も相まって事実上の鎖国が続き、感染者ゼロを記録してはいましたが、海外に取り残されて帰国を希望する自国民にさえ入国を認めないなんていうことをいつまでも続けるわけにもいかず、極端に厳格で神経質な検疫管理措置と引き換えに、少しづつ少しづつ、外からの人を受け入れ始めています。

1年半の間に母が他界し、四十九日が過ぎ、初盆まで迎えました。母が最期に僕にかけた言葉は「いつ行くとね?」でしたよ。

母よ、その答えは2021年8月でした。あなたの初盆の法会の後、すぐ。

検疫だの隔離だの消毒だの、成田を出発して2週間が経ってもまだ最終目的地に着いていないけど、どこにいても海を感じられる小さな町で、自分史上4か国目の海外勤務が始まろうとしています。



March 14, 2021

2011年3月11日、僕は在留邦人でした。


 あの日僕は南アからロンドンに移動していて、ヨハネスバークの空港のテレビで津波のニュースを見た見ず知らずの人たちから「お前は日本人か?大丈夫か?」とたくさん声をかけられた。

 ロンドンのホテルで受付のお兄さんが、普段は有料のインターネット接続を無料にしてくれて「これで日本のニュースを見れるよ」と。

 ロンドンの事務所での用務を済ませて、あとはホテルの部屋でネットばかり見てた。「がんばれ、日本。がんばれ、東北。」と日本語で書かれた英字紙が届けられた。

 素直にその気持ちがありがたかった。

 僕の親戚縁者は九州に集中してる。当時の同僚の日本人もなぜか西日本出身者ばかりで、生命財産に直接被害を受けた人が周りにおらず、当事者感覚が薄いと言われればそうかもしれない。

 それでも、何もできず、何もする気にならず、ただただ気を揉んでいる間に時間は過ぎていった。

 2011年3月11日、僕はTwitterで一言だけツイート投稿している。

 「祈るしかない。」

December 01, 2020

グアムに来ています。

 

 日本では新型コロナ流行の第三波がメディアを賑わせているところですが、グアムに来ています。グアムに来ていると言っても、飛行機が着陸したら即、機側から関係者に付き添われ、あっという間にホテルまで直送されて隔離されてます。東京を出る直前のPCR検査でも、グアムで受けたPCR検査でも陰性なのですが、隔離されてます。

 たしか2019年11月が新型コロナ流行前の最後の海外出張でしたので、それから約1年。それまでは海外出張の合間に海外旅行に行くようなことをして、2か月に1回くらいはどっかに行ってるような生活でした。なので丸々1年まったく国外に出なかったのは久しぶりなのですが、出国したとはいえホテルの部屋からは出られないので、あまり意味はないですね。


 誰しもがいつもと違う1年を味わう羽目になった2020年でした。12月になったばかりで2020年はまだ1か月残っていますし、まだこれからもおおごとが起きそうですが、個人的にももうここまでで十分、身心に重くのし掛かる出来事が続きました。

 予定していた仕事が新型コロナの流行を受けてぽつぽつと延期や中止となっていた年の初め、久しぶりの海外勤務を打診され、4月にはそれが確定。しかし実際にはいつ赴任できるかは目処が立たず、基本的に国内待機。ちょうど緊急事態宣言が出てた時期に重なり、身動きができない状態に。
 収入は減ったものの幸い独り身で食うに困るほどではなく、とはいえいつ赴任が可能になるか見通しが立たず、住むところをどうするか問題が浮上。赴任時期が確定していれば今の住処を退去する時期も決められるけど、いつまで東京にいなくちゃいけないのかはっきりしない状態でどう住むところを確保するのか。家財はどう処理するのか。

 3年余り福岡の実家で入退院を繰り返していた母の体調が芳しくないとの連絡を受けていたのもこの頃。一方で僕の海外赴任がいつ決行になるのか分からない。おまけに新型コロナ流行のせいで県境を越える国内移動は控えよという圧力。簡単に福岡に戻るわけにもいかない。

 そもそも中東やアフリカの経験が長い僕の久しぶりの海外赴任が大洋州になったのは、母の容体を考えると出来れば日本に近い、往来しやすいところがいいと考えたためだったのに、何が何やら分からなくなってしまいました。


 9月に母が他界。この時点でまだ僕の海外赴任時期はぐずぐずと調整が続いていて、なんだかんだ言いながら福岡に戻って母の最期を見取り、葬儀にも立ち会うことができたのはまさに字義どおり不幸中の幸い言えました。それどころか、少し早めにやった四十九日の法要まで日本にいることができました。いずれも感染防止のためできるだけ参列を遠慮していただくようみなさんにお願いして静かなものになりましたけれど。

 そして11月。それも11月16日になって19日に出国できる手筈が整ったとの連絡を受け、実質3日間で慌ただしく身辺整理。しんみり感傷に浸る間もなく成田からグアムに移動して、今に至ります。そしてこの後、最終目的地到着まではまだしばらくかかりそうです。


 例年に比べて自殺者が大幅に増えてしまうほど、たくさんの人たちの生活が狂ってしまった2020年。自分こそは大変だったと自慢しても詮無きことですが、世の中こんな境遇に陥った人もいる、ということでメモ残しておく次第です。

September 29, 2020

母が亡くなりました。

母が最期に見た景色。福岡タワーとドーム球場。


母が亡くなりました。
明日が72歳の誕生日という日でした。

親より早死にしない限りみんな経験することだし、母を失う心情は古来より文才のある多くの人が優れた筆致で綴っていることなので、あえて僕が何か書くことではないのかもしれないと思いつつ、さりとてやはり人生にただ一回のユニークな出来事であり、思うところは書き付けておきたいと思いました。

*   *   *

複雑な劣等感を抱え、天邪鬼で、付き合いの難しいところもあって、理想的な母親とは言えない人だったかもしれませんが、僕を産んだ人であり、育てた人であり、いつも僕を気にかけてくれてた人であり、また僕が常に気をかけてきた人でもあり、その人がこの世界からいなくなるという喪失感は重いものがあります。葬儀を終え、初七日を終えても、身の回りのほんの些細なことにつけていちいちあの日あの時の母の様子が思い出され、手が止まってしまいます。

特に病気の診断がついてから息を引き取るまでの3年9ヶ月は、不治の病だということもあり、自分の感情を自分で面倒見ることができず、周りに不満を撒き散らし、いっそう扱いの難しい人になっていました。経験もしたことないのにおいそれと「分かります」とは言えないですが、そうなるのも無理からぬことだとは思います。人生が終わるのですから。

それでもあの人が何を考えていたのか。決して恵まれているとはいえない境遇に生まれ、幼い頃から弟たちの世話や家事に明け暮れ、早くに働きはじめて職場で知り合った父と結婚し、多くの月日を子育てや祖父祖母の世話に追われた人生の中で何を思っていたのか、最期に「よかった」と思って旅立つことができたのか、考えても詮無きこととはいえやはり母の人生を思わずにはいられません。

*   *   *

葬儀でお経を上げてくれた浄土真宗の導師は、死を認識するのは人間だけだと話されていました。もしかしたら大型類人猿も認識しているのかもしれませんが、大まかに言ってそのとおりなのでしょう。

宇宙に散らばった原子はやがて星を形成し、星の上では複雑な分子が形成され、そこから有機物が生まれ、生物が生まれる。生物は進化の過程で神経系を発達させ、脳という器官を生み出しました。そして地球という惑星の上での生物の生存競争の果てに、ヒトという生物は「意識」を持つようになりました。「意識」とはなんなのか今ひとつよく分かりませんが、とにもかくにも自分という存在が生きているという自覚を持つようになったのです。

僕らの意識、精神の働きは脳や体を構成する原子、分子の構造やその中を行き交う電気の刺激に還元できるのか、それら原子、分子の足し算だけでは説明できないものなのか。説明できないという人は、そこに霊魂の存在を見るのでしょう。

母は亡くなりました。

しかし僕は、そこに霊魂の存在を見出さない、科学を尊ぶ種類の人間です。母の体は病に冒され、生きている人としての有機的で動的な生命活動を維持できなくなり、意識は薄れ、やがて身体の代謝も停止したのだと理解しました。

ただ、無に帰ったのだと考えています。

お経を上げてくれた導師は「みんな御仏になって」とか仰っていたし、家族や親戚も母は先に亡くなった祖父母や叔父たちとやっと一緒になれるでしょう、という話をしています。そう考えた方が救いがあるかもしれません。「意識」を持つようになった人間は、あまりにも不可思議・奇妙な世界、特に死という現象、言い換えれば「意識」の停止という現象に押し潰されないために神とか来世とかの概念を導入し、宗教を必要とするのだと思うのです。

母は亡くなりました。

しかし母の記憶は僕の中に確かに残っています。母と関わった人々の中に、あるいは母のことを聞いた人、見た人の中にも、記憶として残っています。そして記憶というものも、その仕組みはまだ完全に解明されていないにしても、僕らの脳の中に蓄積された細胞や分子や電気信号の繋がりであることは間違い無いと思います。その意味では、母の存在は多くの人々の記憶として、すなわち多くの人々の脳の中の構造として生きていると言えるでしょう。生命活動を行う実体としての母の肉体は終わりを迎え、その意識は失われてしまいましたが。

「人は二度死ぬ。一度目は肉体的な死。二度目はすべての人がその人の存在を忘却した時。」と言います。僕の母は肉体的には死を迎えましたが、僕が生きている限り、二度目の死は来ないのです。

*   *   *

祖父、祖母が亡くなり、母の弟たち、すなわち僕の叔父たちも亡くなり、この理不尽な「死」という現象に向き合うことを少しづつ理解し、いつか来ることが分かっていた母の死にも向き合おうと思っていたのですが、やはり実際に迎えると寂しいものです。ややもすると理性が勝ち過ぎるきらいがあり、「死」というものを科学的、合理主義的な視点で見る僕でさえも、母がいなくなることで感情は掻き乱されます。何を見ても、何もやっても母の影がちらつき、手が止まります。母が息を引き取った日の夜は、母のそばを離れ難く、ずっとその顔を見つめていました。

しかしそしてまた、こうして母が亡くなるという経験を経て、やがてくる僕自身の「死」についても準備が進むような気もしています。

*   *   *

この度の母の逝去にあたり、あたたかいお悔やみ、励ましの言葉をいただいた方々に心から感謝申し上げます。ありがとうございました。正直たいへんでしたが、そして今もたいへんではありますが、僕は元気です。

August 25, 2019

ラダック再訪。(1)



 もう20年以上も昔、修士課程を終えた記念にインドを旅行してからその魅力を覚え、幾度となく彼の地を訪れています。ジャンムー・カシミール州、ラダック地方も2001年8月に行っているのですが、2019年8月、ラダックに山岳トレッキングに行くという友人に誘われて再度出かけてみました。本格的な山岳トレッキングは僕の燃費の悪い大柄の体躯には荷が重いので、そこは適当に勘弁してもらいつつですけどね。


 最寄りの空港はレー。デリーからLCCで1時間程度で意外と近い。昨今はインドもLCCの航空網が発展して、どこも行きやすくなりました。今回は空港からさらに車で1時間弱、レーの街からインダス川を挟んだ対岸のストク村に宿泊です。インダスを渡るメインの橋が壊れてしまって使えないとかで回り道、レーからはいつもより少し余計に時間がかかるみたいです。
 このページの一番上の写真はストクの村の遠景。背後に見える雪山はストク・カングリ(標高6,154m)。ストク村(標高3,500m強)でも空気薄くてそれなりに大変なのに、みなさんあんなところまで登りに行くんですよ。



 今回泊めていただいたのはNyamushan House Homestay。ラダックの男性と結婚して現地に移り住んだ池田悦子さんが子育てしながら切り盛りしていらっしゃる民宿っぽいお宿です。聞けば住む人がいなくなってた旦那の実家を改装した建物だそうで。地域で最も古い民家のひとつだそうです。

*   *   *

 東京暮らしは嫌いではないし、今の仕事もそれなりに納得してやっている。時々は友達と外食に出かけ、美味しいお酒など楽しむ。それはそれでいいんですけど、その繰り返しも長くなると、なにかどこか、思考が硬直してくる気がします。こんなんでよかったんだっけ?
 時には日常を離れ、自分の生活を俯瞰する時間が必要なようで、それが僕にとっての旅行の意味でした。インドはその旅先としてうってつけ、もう数えるのはやめましたが、10回以上は来ているはずです。


 初日はまだ薄い空気に体が慣れず、ずっと心臓がバクバクしている状態なので、村の中の旧王宮までゆっくりゆっくり散歩。東京の自宅を出てからまともに寝てない寝不足状態もあって、けっこう息が切れます。自分が老人になったときの疑似体験をしているようでした。
 ストクの王宮は19世紀に建てられ、ラダックの王家の住まいだったところだそうです。今はインダス川の対岸のレー市街を見晴らすことができる博物館になっていました。

*   *   *

 翌日はレーの市街へ。空港も近く、この地域で一番の街です。前回訪れたのは18年も前ですが、来てみるとなんとなく思い出すところがあります。もちろん、開発も進んでいて建物も増えているんですが、「たしかこっちに抜け道があった」「当時からここに観光客向けのレストランがあってビールが飲めた」「ここは建築中だったけど、18年経ってまだ建築中なの?」「あの時泊まった宿はこの道の先の左手だった」と記憶がよみがえります。


 18年前は一人旅でした。上京してから数年経って、でも当時も「こんなんじゃないはずだ」と模索の日々で、都内でまた別の大学院に入り直していろいろとめんどくさいことを考えている頃だったはずです。
 一人旅だったけど、車をシェアしたり、同宿だったり、レーから一緒に遠出したりした旅の道連れがいて、実質は一人ではありませんでした。あの時お茶を飲みながらいろんな話を聞かせてくれたオーストリアの女医さん、もう名前も覚えていませんが、ダラムサラでボランティアで医療活動をしてて、ラダックの僧院を巡った後はアムリトサルの黄金寺院を見に行くとおっしゃってましたっけ。「そこは千夜一夜のようなところで、きっと人生も千夜一夜のようなものよ」と微笑みながら、出会った記念にとマニ車のペンダントヘッドを僕にくれました。


 そのペンダントヘッドは、今、まだ僕の手元にあります。あの時から、夜の数は千回を超えましたね。みんなどこで何をしてるのかなあ。

*   *   *

 そろそろ高地にも慣れてきたところで、レーから120kmほどのところにあるLamayuruの僧院(ゴンパ)へ。18年前は砂利道だった道路はすっかりきれいに舗装されていて、途中休憩を取りながら行っても片道4時間はかからないです。


 途中、ザンスカール川とインダス川の合流地点を通ります。川の水は今は茶色だけど、冬には緑色になるそうです。




 Lamayuruのゴンパ。この地域の総本山みたいな僧院です。盛んに建築、増築が進んでいましたが、「今は僧は150人くらいしか住んでないよ。」とのこと。

 レーにはレンタルバイク屋がたくさんあって、ラダックのツーリングも気軽に楽しめそうなんですが、18年前にはまだレンタルバイク屋はありませんでした。でも、もぐりでバイクを貸してくれる人はいて、僕はそれでLamayuruまで来ようとして、でも途中でバイク壊しちゃったんでした。雑にギアチェンジしてクラッチパネルを割ったんです。あの頃キミは若かった。あの時、砂利道をバイクを押して歩いた記憶があるので、この道が舗装されていなかったのは確かです。
 それであの日、なんだかんだあってLamayuruの少し手前のKhaltseの村に一泊することになって。同宿のおじさんと一緒に晩飯食べて、片言の英語で家族の話、宗教の話、インドと日本の話などしたんだっけ。「日本に帰ったら、キミの"inner spirit"を書いてよこしなさい。」そう言っておじさんは僕のノートに自分の名前と住所を書いたんです。
 翌日、宿を出ようとしたら、僕の宿代と飯代はそのおじさんによって支払済でした。すいません、18年経ちましたが、まだお礼も言えてないし、"inner spirit"も書いてません。

 今回はLamayuruの帰り途、Khaltse村でドライバーくんとガイドくんとチャイを飲みながら、そんなことを思い出していました。




(長くなりそうなので一旦ここまで。後編に続きます。)

November 10, 2018

そりゃそうだけどさ。

 そのジムでは、「器具を使った後は備え付けのタオルで拭きましょう。」というルールになっていて、それぞれの器具のところにハンドタオルが置いてある。

 ある時、若い男性が器具を拭かずに立ち去ると、「おい、ちゃんと拭けよ。」と絡む五十過ぎくらいの男性がいて、辺りが一気に気まずい雰囲気。僕は見てたんですが、その若い男性は今ジムに来たところで汗もかいてないし、その器具でちょっとウォーミングアップしただけなんですよね。別に器具に汗を残したわけじゃない。

* * *

 その通りは中央分離帯が植え込みになってて、車で脇道から出てくると右折も直進もできない。左折のみ。ただ、大して車も人も多くないところなのに歩道はかなり広いので、自転車で脇道から出てくると、右折して歩道を50mほど逆走すれば、信号を渡ってその通りを横断できる。

 ところがその50mの区間で、「おい、なに逆走してんだよ。」と絡む男性がいる。これも五十過ぎか六十くらい。いきなり他人から大声で凄まれれば、頭に血が上るのも分かる。

* * *

 「規則」という点から言えば、いずれも他人に注意し絡んでくる男性の方が正しい。正しいんだけど、そりゃそうなんだけど、それでだれか迷惑しましたか? 規則上文句が言えない立場から他人を罵って、気持ちよくなってませんか?
 規則ではそうなっているという状況で、相手が反論しづらいところで、相手を叱責する。そういうことがあちこちで起きてて、なんだかギスギス、息苦しくしてると思うんですよね。

 しかし、外形的には他人に絡んでくる人の方が正しいことになってしまうので、なかなか指摘しにくい。ブログでこういうことを書いても、「あなたは規則を守らなくてもいいと言うんですか!」「違反者の肩を持つんですか!」というレスが付く気がする。

 息苦しいなあ。通勤電車の「お客様どうしのトラブル」っていうのも、こういう感じなんだろうなあ。

 で、なんでかこういう正義を盾に他人を叱責する人って、中高年の男性が多いように思うんですが、どうなんでしょうかね。くわばらくわばら。

October 26, 2018

ジャーナリストの人質事件についての会話。

>>安田純平氏の件ってどうなんですか? 私は、戦場ジャーナリストを名乗る以上、自身のセキュリティには最大限注意すべきだと思ってます。カタールが払ったという3億円の身代金も……。
>>私の考えが歪んでいたらごめんなさい。
>>でも、自分の行動で、他人様に迷惑をかけるって我慢ならない。しかも、3回目! 日本の報道を見てると、ジャーナリストは支持してますね。彼を。

>彼のこれまでの発言、行動を見ているととても支持できないし、「いい加減にしろ」「自己責任だろ」と言いたくなるのも分かります。僕も「なんなんだこの人は」と思う。
>でも、それでも、そんな人間でも、海外でヤクザな犯罪集団に拘束されたとなればその解放に最大限可能な努力をするのが国家であるし、それがあるべき姿だと思います。 >たとえ一納税者としては腹立たしく思えたとしても、国家の威信と信頼を維持するためには必要なコストだと思いますよ。

>>なるほどね。
>>今回の事件と離れますが、湯川遥菜さんのときには、あんまり日本政府は熱心に動いたようには見えなかったけれど、それは高度の国際政治的問題から実は隠密裏にやっていたんだけど間に合わなかった・・・、ということなんでしょうか。

>>それと、カタールが3億円?の身代金を払ったということなんですが、カタールがたまたま金持ちだったからよかったようなものの、日本政府は絶対に払わない、という姿勢だよね。最大限可能な努力、というのは、「金を払わないで」という前提となると、なかなか解放交渉はシンドイのではないかと思うのです。私個人は、国家が身代金を払えとは思ってないです。ただ、先方が金を要求する以上、いくらなんでも交渉に限界があるのでは、という意味。

>「最大限可能な努力」も限界はあるのですが、努力しているという姿勢を見せることが大切なんではないでしょうか。

>実際上は手詰まりになって、だからいつまでも解決しないまま時間が過ぎていくわけで。 >身代金については、これは本当に払ったかどうか分かりません。「身代金の要求には応じない」が正攻法であり、払わないから解決しないし、場合によっては人質が殺害されることもやむなし、というのが正しいとされていますが、実は裏でこっそり払っている可能性は否定出来ないです。アメリカでさえ、「絶対払わない」と言っていたのに、事件解決後何年も経って、実は払っていたことが暴かれたケースがあり、欧州諸国も実は払っていたのではないかと疑われる事案があると聞きます。 >今回はカタールが払ったことになっているそうですが、実際は誰が払ったのか、あるいは誰も払っていないのか、分かったもんじゃないです。

>>なるほどね。身代金のことは、だれもわからない・・・それはそうだわね。
>>日本の報道機関の論調だと、ジャーナリストなんだから英雄だ・・・という感じなのですが、民間人だろうがジャーナリストだろうが、日本政府としては同じ扱いということだよね。
>>ジャーナリストといっても、単に目立ちたがりの冒険野郎の自称ジャーナリストの人もいるだろうし。
>>とにかく政府は「日本国民を見捨ててません。努力してます」という姿勢を示すことは大事で、今回は、幸いにも結果が伴った、ということでしょうかね。


>どんなに愚かしい人でも、どんなに政府に批判的な人でも、政府は国民を守るという姿勢を取ることが必要だと思います。 >どんなに馬鹿で自己責任で貧困に陥った人でも、政府にはすべての国民に福祉を提供することが憲法上求められるのと同じでしょう。


>>なるほどー。
>>ということになると、ジャーナリストと民間人は、あまり違いはないということだね。


>政府は、ジャーナリストは民間人に分類していると思います。一般旅券所持者は民間人かな。あるいは軍人でなければみんな民間人。

>っていうか、報道機関がジャーナリストを民間人と区別して英雄扱いしてるのなら、そこが変。英雄のジャーナリストもいれば、愚かなジャーナリストもいる。 >医者だから、サラリーマンだからという肩書だけではその人の偉さは測れないのに、ジャーナリストの自分たちは特別であると自分たちで報じているなら、その選民意識が人々から嫌われる理由の一つではないかと。

>>それだ!


July 14, 2018

伊豆七島、式根島。

 


 その週末は西日本を中心に記録的な大雨の被害が広がり、私の実家も一時避難指示対象地域に入ってしまうという週末でしたが、心配すること以外にできることはないので、予定どおり伊豆七島は式根島にスキューバダイビングに行ってきました。


 金曜深夜に竹芝桟橋を出港する頃には東京の雨は上がり、大島を通り過ぎる頃には「さるびあ丸」の甲板から水平線上の穏やかな朝焼けを眺め、午前8時、式根島の野伏港に入港した時には真夏の日差しがまぶしかったです。



 ダイビングはものすごく久しぶりで、スキルの再確認も必要だし、そもそも年食って体型も体調も変わっているので以前を同じ事ができるのかどうかも心配だしということで、午後からゆっくり、ビーチエントリーのやさしいダイビングを2本の予定。なので、午前中は原付バイクを借りて島を一周りしてみました。


 リアス式海岸に囲まれ、ところどころの入江ではエメラルド色の海が涼しげです。



 聞けば、先史時代から平安時代の遺物も出土しているそうで、この島に古くから人がいたことが分かります。江戸時代にも八丈島に渡る時の風待ちのために船を入江に入れたり、隣の新島の人々が漁に来たりしていたようですが、改めて定住者が入植したのは明治21年(1888年)のこと。昭和12年(1937年)の開島50周年の碑と、昭和62年(1987年)の開島100周年の碑が建てられておりました。


 4世帯8人が入植した当初は真水の確保に苦労し、3年がかりで掘った「まいまいずの井戸」。現在は新島から海底に敷設したパイプを通じて真水が送られてきているそうです。

 現在の島の産業は漁業と観光業。
 小型漁船で近海の魚を捕っているそうで、いろんな種類の魚が揚がるそうですが、季節になると5kgくらいの脂ののったマグロがうまいという話です。また、タイの養殖も行われている様子でした。しかし、巻き網漁船による大規模漁業の影響で、この島の家族経営的な漁業は厳しいとの話も聞きました。先行きが明るくないので、跡継ぎがいないし、継がせたくもない。いずこも同じでよく聞く話です。


 観光業の方は、釣り客がメイン。海水浴客、私のようなダイビング目的の客もやってきます。島内に何か所かある海辺の露天温泉も楽しめます。




 しかしこちらも厳しいようで、民宿の数は往時の半分くらいになってしまったとのことでした。私が式根島に行ったのは7月初頭のハイシーズンに入る少し前だったので若干割り引いてみないといけないし、また日差しと潮風の強いところで屋外のものが早々に色あせてしまうということもあるんだろうとは思いますが、それにしてもこんな風なギリギリな感じの宿や店が多く、明らかに廃業してしまっているところも目に付きます。

 観光のハイシーズンは夏の約2か月間だけ、台風シーズンになれば客足は落ちるし、冬は暇だしということで、島の人は夏は民宿など観光客相手の仕事をし、それ以外の季節は漁業を手伝ったり、隠れた産業である公共事業に従事したりしているようですが、それもそんなに実入りがよいわけでもなく、先細りを思わせる話でした。

 ということで、いずれにしてもあんまり景気のいい話ではないので、若い人が定着せず高齢化が進み、働き手が高齢化するからまた民宿が閉じるという悪循環。少子高齢化の昨今、日本全国どこでも似たようは話は聞きますが、都内からのアクセスはそんなに悪くないところ(竹芝桟橋から大型船で9時間、高速船で3時間。調布飛行場から飛行機で新島まで40分、新島まら船で20分)にある美しい海と島というアドバンテージを持っているのに、それでも避けられないこの現実。開島100周年、昭和62年には700人を超えていた島の人口は、今は550人くらいだといいます。

 行政もただ傍観しているわけではなく、東京都は人口当たりで見れば破格の予算を離島に割いていますし、平成31年3月末までの期間限定ではありますが伊豆七島の加盟店で有効な電子クーポン「しまぽ」を発行したりもしてます。

 それでこの「しまぽ」、観光客が7000円で購入すると都が3000円の補助を付けて1万円分のクーポンとして使えるという仕組みなのですが、認知度はあまり高くないようで、しかもお店側にしてみると運営側(JTBだそうですが)に手数料をピンハネされるのでちょっともにょもにょしてました。私も式根島に行くと決めてから「しまぽ」の存在を知ったわけで、「しまぽ」があるから伊豆七島に行こうと考える人がどれくらいいるのかなと考えると、若干疑問な気もします。まあ、お得感はあるし、離島振興をがんばっているという広報効果があるとして、それで良しとするんでしょうかね。

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 とはいえ、エメラルド色の海、亜熱帯のハイキングコース、近隣にはサーフィンに好適な島もあり、しかも都内から近い。金曜の夜に出て、日曜の夕方には戻ってこれる、都内の勤め人の週末エクスカーションにはもってこいの場所です。ご興味ある方はぜひ。おすすめです。